つながる世界を生きる。ブログ

自分とつながる、人とつながる、そして自然と・・。 スマイルメーカー岡村しげるの「つながる世界」探究ブログ。

カチンとくる人

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カチンとくる人は、

 

「あなた、自画像(セルフイメージ)のそこんとこ、変えたほうがいいよ」

「力不足だとカン違いしている箇所はそこだよ」

 

と伝えてくれている。

 

それを知らなかったとき、受け入れられなかったとき、世界は敵だらけだった。

そして自画像はどんどん小さく貧相になっていった。

 

理解するたび、そのことを受け入れられる度に、世界に仲間が増えていく。

修正箇所を教えてくれる仲間だ。

かつての敵が(本人も知らない内に)仲間になっている。

そしてカン違いの自画像を訂正するたび、力が戻ってくる。

 

本当の自己変革はこのようになされる。

 

世界に仲間を増やそう。

相手も気づかないうちに。

 

 

 

 

 

「食」の安全性とグルテンフリーと自己変革(1)

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先月から、とある勉強会で「食」について学んでいます。

 

「食」といっても「食の安全性」。

主に農作物と畜産の現状についてです。

 

断片的には知っていた内容でしたが、それらの断片を体系立てて理解し始めると結構根深い、一筋縄ではいかない課題が見えてきます。

 

具体的には、

農作物でいえば品種改良や遺伝子操作、ポストハーベスト(残留農薬)の問題。

畜産で言えば、家畜にストレスのかかるブロイラー的飼育、飼料、薬品、屠殺法の問題。

 

思っていた以上に不自然な状態が常態化しているようでした。

安全性の担保も曖昧で、感覚的にはかなり違和感を感じます。

 

一方でそうせざるを得ない、またはそうすることが合理的に思える現状も理解できました。

野菜や家畜を製品のようにみなして「生産性向上」を掲げれば、ひとつひとつは妥当な打ち手のようにも見えてきます。

 

良かれと思って、多くの人に安価に提供できるようにと「生産性向上」を図るけれど、それが「食の安全性」を損なってしまう。

部分最適の積み上げが全体最適に反する典型例でしょう。

 

ともかく現代の食料生産にまつわる課題、なかなか根深いものだということがわかりました。

このような背景で、これから少しグルテンフリーの期間を設けようと思ったわけですが、次回に続きます。

 

自己変革のコンサルタント

スマイルメーカー岡村茂

smilemaker.tokyo

 

スピードと品質の関係

スピード。

品質。

 

なんとなく、

そう、なんとなく、

この2つは相反するものかのように感じていた。

 

早く行うと雑になる。

ゆっくりやれば、丁寧になって質が上がる。

 

でも本当にそうなのか?

なんとなく長年解消されずにそこにあった疑問。

 

それは単に思い込みかもしれない。

そういうときもあるかもしれないしそうでないときもあるかもしれない。

 

 

先日、「スピードライティング」という講座に参加した。

 

スピードライティングとはその名の通り「スピードを上げて書く」、というものだ。

その講座の講師、編集者で作家の三浦崇典さんが言うには、「スピードを上げたほうが文章の質が上がる」というのだ。

 

たいていの人は書くことに限らず、作業というものはスピードを上げたら雑になって品質が下がるし、ゆっくり丁寧に行えば質が上がると思うだろう。事実そういうことはある。僕もそう思っていた。しかし三浦さんはそうでない、と言う。

 

「どういうこと?」と思いつつもどこか正しい気もする。

その時は自転車の例で話されていた。いわく、「自転車の練習を始めたときを思い出してほしい」と。「そのころって、ある程度思い切りよく勢いに任せてこげば乗れるし、ゆっくりこぐと倒れてしまうでしょ?」と。

 

たしかにそれはその通り。BMXアクロバット(自転車曲芸乗り)を思い出してもスローな方が難しい、そういうことはある。

他にも「石橋を叩いて壊す」の言い方もあるように、慎重にいきすぎて枝葉末節が気になって、本筋がわからなくなることはよくある。僕も以前に仕事で企画書や提案書を書いていたときによくあった。今でもレターや告知分を書くときに起きることだ。

 

逆にスピードを上げると枝葉が切り落とされて幹だけが残る。その結果読む方は幹だけが提示されてわかりやすい、という訳だ。つまり質が上がる。

 

これは文章を書くときだけでなく、案外なんにでも通用するのかもしれない。料理しかり、絵や書、ひょっとしたらセミナーの講義やアドバイス、人の相談に乗る時なんかもそうなのかもしれない。時間をかけすぎることでかえって伝わりにくくなるのだ。それは単に作業者の自己満足にすぎなくて、本当には役立ってないのかもしれない。そう考えると少し怖くなるが、でもそういうものだろう。

 

本来物事には、速すぎもせず遅くもない「ちょうどいい時間」というのがあるんだろう。そして無意識の「ゆっくりやった方が質が上がる」という思い込みを打破するには、いったんスピードを追求するのが有効だと感じた講座だった。

 

よく考えてみれば品質は「丁寧さ」と「雑さ」が問題になるのであって、スピードの問題ではない。

ゆっくりやったら丁寧にできて、素早くやったら雑になるというものではない。そういう場合もあるが、そうでない場合もある。

丁寧にやるには一定のテンションが必要で、速「すぎ」たらおっつかなくなってテンションは壊れる。でも遅くても気が散ったり緩んだりでやっぱりテンションが壊れるのだ。

 

スピード自体を目的にするのではないが、

「品質を担保する」目的のためにスピードを(仮の)目的にする。

 

しばらくそんなスタンスで物事に取り組んでみようと思う。

 

スマイルメーカー 

岡村茂

 

〜岡村茂 プロフィール〜

マインドフルネス。潜在意識のクリアリング。
癒し、そして本来の自分と出会う。

自己実現の最短ルートを進み、
室の高い人生を望むあなたを支援する
QOL向上コンサルタント

 

新しいHPができました。↓↓↓

 

「信頼する」ことの難しさと楽しさ

 

「人を信頼する」のは案外難しいことなのかもしれない。

 

愛されて育った人にとっては自然なことでも、

そう感じずに育った人には難しい。

 

裏切られた記憶がある人ならなおさらだ。

ある時、自分は「人を信頼できない」と気づくのだ。

 

それでもそういう人にはギフトがある。

「信頼する」を学べることだ。

 

信頼を学べば、

相手の態度に一喜一憂することがなくなる。

相手の振る舞いを期待なく予想できるようになる。

長期的な関係が続けられるようになる。

 

そして、

好き嫌いを超えて人とつながれるようになる。

好き嫌いを超えて人とつきあえるようになる。

 

すると、

人が好きになる。

 

楽しくなるよ♪

人生が(^^)

 

 

学びは続くよどこまでも♪

目の前に行く手をふさぐ大きな岩がある。

 

チャレンジと捉えてなんとか乗り越える。

 

いくつかある大きな岩を乗り越えれば全て上手くいく!と思い定め、いくつかのチャレンジをなんとか乗り越える。

 

よし、これでバッチリ👌と思って

意気揚々と踏み出すと、痛てっと膝をぶつける。

 

見渡すと、以前は気づかなかった小さな岩があちらこちらに転がってるのに気づく。

 

え〜、終わったと思ったのにまだあんのかよ。。

 

ひと通り小さな岩を片づけた。

 

よし今度こそこれでバッチリ👌と思ったら

裸足の足に小石が痛い。

 

チャレンジして乗り越える度に感性が上がり、

センサーが向上するから、気づくようになる。

 

こんなことなら鈍感なままで良かった、

と思うけど、それもなんか違う。

 

大きな岩にも小さな岩、そして小石にも気づくから、足に優しく丁寧に対応できるようになった。

 

同じように歩く人に注意を呼びかけたり、

乗り越え方を教えられるようになった。

 

気がついたら、

いろんなことがスムースになっていた。

 

 

でも、まだ小石があるんだヨなぁ〜〜

 

がんばれ👍

それが人生だ😎

 

 

 

 

たしかなこと

仕事柄たくさんの人の話を聴きます。

 

それぞれの物語があり、

ときには八方塞がりに感じて悩んでいることもあります。

 

その人の立場に立って、

その人の目を通してみると、

そう感じるのも無理はない、というよりむしろ、

行き詰りを感じる他ないだろう、という場合もあります。

 

そんなときは、

その苦しみを理解し、側にたたずみながら、

その人がべつの視点が持てるようになるまで

信頼して待つことになります。

 

そんなときは、釈迦の言う

「私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりである」

を思い出します。

 

 

さて、

人間であるということは、

制限を抱えた無限の存在である、ということ。

 

制限を感じては新しい視点を獲得してより成長する。

そしてより大きな制限に到達し、またそれを超える視点を獲得し成長する。

その繰り返し。そして「無限」という性質を感得し始めます。

 

 

だから『制限』にぶつかることは避けられない。

この次元で暮らす人間である限り。

 

けれども当初「苦しみ」でしかなかった『制限』は、

「成長のきっかけ」へとその意味合いを変えていく。

そして、制限を抱えた無限の存在だと理解が進みます。

 

 

このように人間であることには、苦しさも喜びも伴います。

「制限」の中にいる時は無情さ、非情さに打ちのめされることもあります。

苦しんでいる人のそばにいて辛くなることもあるでしょう。

 

そんな時には歌を聴いて、

ひと息ついてまた歩きます。

 

雨上がりの空を見ていた 通り過ぎてゆく人の中で

悲しみは絶えないから 小さな幸せに 気づかないんだろう

 :

自分のこと大切にして 誰れかのこと そっと思うみたいに

切ないとき ひとりでいないで 遠く 遠く離れていかないで

 

疑うより信じていたい たとえ心の傷はいえなくても

なくしたもの探しにいこう いつか いつの日か見つかるはず

 

小田和正「たしかなこと」

 

 

youtu.be

※カバーヴァージョンです。

新学期の感覚

今日から今年の「覚醒塾」がスタート。


新しい参加者を迎えて、こちらも新体制での「学びの場」が始まりました。

 

例年にない、なぜだか新学期がスタートしたような気分でした。毎年たいていこの時期に始めるのですが、こんな気持ちになることは珍しく不思議な感じです。

 

自分の変化なのかなにか別の要因なのか、新しい流れが訪れた感覚があります。

 

参加者のみなさんと一緒に自分も大きく変化していこうと思う一日でした。これからが楽しみです。

 

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