2ヶ月ほど前、以前から気になっていた骨盤のバランスを整えようと、とある指圧の先生に診てもらいました。
すると、「骨盤の問題というより、足先まで意識が通ってないようですね」と言われ、5本指シューズを勧められました。
こんなやつ↓↓↓
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しばらく履いていると、足先まで神経が行き渡って、足の指が手の指を開くように思いっきり開くようになりました。脚から足先までの感覚が、だんだんと腕から手先までの感覚に近くなっています。歩いている時も、どの筋肉を使っているとか、どの部位に体重がかかっているとかに自然に気づくようになりました。結構心地いいものです。
今日もそんな感覚を楽しみながら歩いていたら、ある思いが巡っていました。それはこれまでの「感覚との付き合い方」の変遷です。
子供の頃はとても感覚的だったのを覚えています。けれどいつの頃からか感覚を使うのを止めて、説明のつく理屈や観念こそが大切と思うようになりました。どういうわけか「感覚を使うのはズルい」と思っていたのを憶えています。
そして言葉で説明できる論理や観念こそが重要で、説明できない「感覚」は無意味で余計なもの、もっというと判断を迷わせるネガティブなものだとまで思うようになっていました。論理が重視されるコンサルティングという仕事の影響もあったと思います。
しかし、そんな考えで何年か過ごしてわかったことがありました。
それは、論理的に正しいからといって必ずしも正解にたどり着くわけではない、ということです。ディベートをイメージするとわかりますが、正しい論理を積み重ねて正反対の結論を出すこともできます。
また、仕事や人生を乗りこなしている優秀な人を観察して気がついたこともあります。
それは、当人は無意識かもしれませんが、彼らはあらかじめ感覚的に答を出していて、それを論理で補強して説得力を持たせたり、周囲に影響を与えているようでした。
理性と感覚では扱える情報量が数万倍~数千万倍も違う、という人もいます。
実際これまでの自分を振り返っても、”頭で理解できてるけど感覚的に腑に落ちないこと”と、“頭で理解できないけど感覚的に腑に落ちていること”を比べたら、確率的に後者の方がうまくいっています。
またそもそも、感覚を使わないで生きていると、自分がロボットになったみたいで毎日が味気なくなります。そして終いには人生に嫌気がさしてしまいます。
そんなことで、ここ10年程は「感覚」を取り戻す取り組みをしているのでした。
具体的には、
- 感覚に気づく
- 感覚を頼りにする
- 感覚の精度を上げる
です。
「感覚の精度を上げる」には、感覚を鈍らせているモノを取り除きます。すなわち、不要な観念を手放し、未処理の感情を解放し、エゴを適正化し、インナーチャイルドやトラウマを解消します。
その上で、「感覚」をインプットとして十二分に取り込み、その土台の上に論理を構築します。「感覚的論理思考法」とでも呼べるでしょうか。今はこのバランス感で思考するようにしています。
そんな現在から振り返ると、感覚を使っていなかった時期は夢や幻の中にいたように感じます。頼りない泥船に乗った感じと言っていいかもしれません。
そこから抜け出さないでいたら今でも苦しかったろうし、観念まみれで偏執的になっていたかもしれません。想像するだけでゾッとします。
いろんな縁で今に至りましたが「良かったなぁ」と思います。
そんなことを感じながら歩いた夕暮れ時でした。
今日も読んでいただきありがとうございます。
スマイルメーカー岡村茂でした。
感覚を大切にしよう☆