先日、
「『自分』とは自分の一部だけれど自分そのものではない 」
とかきました。
これが禅問答の様になってしまったのは、ひとことで「自分」と言っても違うものを指しているからです。
これまでの探究で、「自分」が指すものには大雑把にいえば2つあるとわかってきました。
ひとつは日常的に意識している「個としての自分」~いわゆる自我~。
そしてもうひとつは、深い瞑想状態や、何かに圧倒されたときに感じる「個を超えた意識としての自分」~いのちや霊(Spirit)、普遍意識~ です。
通常わたしたちは「個としての自分」に意識の焦点を合わせているので、「個を超えた意識としての自分」には気づきませんが、それでもそれはそこにあります。
素晴らしく壮大な絶景に、心震える演奏に我を忘れるとき、大切な人を失ったり、命にかかわる病気を宣告されて大きなショックを受けて茫然自失したとき、そんな「個としての自分」が崩れた時に、「個(自我)を超えた意識としての自分」が現れます。
それは普段の生活で「いのち」の存在は意識しませんが、「いのち」は厳然としてあるのと似たようなものでしょう。
冒頭の文章の本意は、
個としての自分は、物理次元で活動するのに便利な表現型。いわばフィギアまたはキャラクタである。個を超えた意識としての自分、物理次元(+α)に表現された個を超えたより大きなひとつの意識が存在し、その存在がより包括的で本質的な自分である。
という認識です。
言いたいことにたどり着くまで長くなりそうなので、今日はここまで。
また続きを書きます。良かったらまた来てください☆
スマイルメーカー岡村茂でした。