つながる世界を生きる。ブログ

自分とつながる、人とつながる、そして自然と・・。 スマイルメーカー岡村しげるの「つながる世界」探究ブログ。

平和のために闘うってどうなの?(その2) ~「永遠の0」「るろ剣」を見て考えた~

こんばんは、心の研究家 岡村しげるです。

11月も半ばになり、めっきり寒くなりました。

時間が経つのは早いものです。始めたばかりのブログも間隔が空いてしまいました・・(苦笑)。新しいことを始めるには意識を強く持たないといけません。。

 

ふぅ。さて少し落ち着いた時間がとれたので、気になっていた続きを書きます。

 

前回の内容は、

「『平和のために闘う』のは自己矛盾じゃないか?
『平和を拡げたいなら、闘わず平和でいなさい』というのが正しいのでは?

けれども、実際に暴力が目の前に迫ってきたときに、それで対応できるんだろうか?いじめと言った個人的なレベルから、コミュニティ同士果ては国同士の争いまで。 

その時、闘うのか?逃げるのか?それとも、暴力を甘んじて受けながら、非暴力を貫くのか?

今回見た映画に、そのヒントがありました。」

というものでした。

 

平和のために闘うってどうなの?(その1) ~「永遠の0」「るろ剣」を見て考えた~ - つながる世界を生きる。ブログ

 

 

この疑問は子供の頃からの、長い間答の出なかった問いでした。ようやく今回、自分なりに腑に落ちる回答に至りました。備忘も兼ねて記しておこうと思います。

 

まず「るろうに剣心」ではこんなシーンがありました。

ある村で、流浪の剣客「緋村剣心」が必死の形相の少年に声をかけられます。少年に引っ張られるがままに叢(くさむら)の中へ向かうと、息も絶え絶えの若者が「村を助けてくれ」と剣心に助けを求めます。

話を聞けば、彼の村が数十人の荒くれ者に襲われたとのこと。彼らは明治政府転覆を狙う「志々雄真(敵役)」の息のかかった者たちで、村人たちでは手が負えない。だから、弟である少年の働く村まで、助けを求めて命からがらやってきたのでした。その話を剣心に伝え終わった後、若者は息を引き取ります。

 

剣心は少年と共に、襲われた村へ向かいます。

村はすっかり荒らされて、さらには見せしめに少年の両親が殺されていました。そして殺された2人は、村の中心にあるやぐらから吊るされています。

剣心が吊るされた両親を下ろそうとすると、村人たちが寄ってきて口々に「やめろ」と叫びます。勝手なことをして荒くれ者たちに見つかると、さらに襲われるかもしれないからです。

 

そうこうするうちに、数十人の荒くれ者たちが剣心を見つけ闘いが始まります。大立ち回りの末(迫力満点の殺陣!)、剣心が勝ちます。

 

荒くれ者たちは縄で縛られ、その首謀者は村人たちに囲まれリンチ寸前です。村人たちは件の少年に短刀を渡し「親の仇だ、殺せ!」と囃(はや)し立てます。少年は今にも殺そうとしています。

 

その時、剣心は少年にこう語りかけます。

 

『 やめておけ。きっと後悔することになる。

 

志々雄のように「力こそ正義。」と傍若無人に力を濫用するような者、力のないものを踏みにじるような男にはなるな。

けれども村人たちの様に恐れをなして怯えひるみ、長いものにまかれる卑屈な者にもなるな。

そうではなく、お前の兄貴の様に、村人を救うため自分のいのちを省みず助けを求めた、そういう男になれ。』

 

と。

 

もうひとつ。

「永遠の0」の主人公、宮部久蔵は非常に腕の経つ戦闘機乗りでありながら、決して乱空中戦には飛び込みませんでした。そのためゼロ戦乗りの仲間達からは卑怯者、弱虫の汚名をきせられていました。宮部がその汚名を甘んじて受けていたのは、なんとしても生きて帰るためでした。

始めはそれが、宮部自身の命惜しさのための行動かと思う。

しかし映画の終盤、宮部は特攻隊員として出撃します。

そして、持ち前の操縦能力をいかんなく発揮します。特攻隊の一員として、敵戦艦の機銃掃射を見事にかいくぐります。そして敵艦に体当たりし、命を散らしました。

 

なんとしても生きて帰ろうとしていた宮部が、なぜ最後に命を捨てたのか?

それは、故国に残された妻と娘の世話を頼める若者を見つけたからでした。

 

彼が大切にしたかったのは、自分の命ではなく、残された奥さんと娘さんだったのでした。

 

 

この2本の映画を続けて見て、そこに共通するエッセンスがあるように思ったのでした。

それは、「大切なこと」を大切にする、ということでした。

 

ふむ。では、その「大切なこと」とは何でしょう?

大抵、次のどちらかになるんじゃないでしょうか。

ひとつは、自分。

アイデンティティ」や「小我」といってもいいかもしれません。限定された「個」を増強したり、維持しよう、または防衛するエゴ的なもの。

 

もうひとつは、いのち。

多分に感覚的でなんとも言葉にしづらいのですが、個を超えたより大きな「いのち」や「魂」とでも呼ぶべきなにか。「大我」や「生命のつながり」とも言えるでしょう。普遍意識やワンネス、一なるものと呼ばれることもあるでしょう。

 

今回の映画で言えば、志々雄一味の様に「自分」のために個の力を増強することがた「大切なこと」なのか。村人たちのように「いのち・魂」を踏みにじられることを許しても「自分」たちの命を守ることなのか、空の戦いから逃げ回って自分だけの命を守ることなのか、それが「大切なこと」なのか?

 

それとも、

自分の命を省みず村人を救おうとした若者のように、個を超えたより大きな「いのち」を守ることが「大切なこと」なのか。宮部のように自分の名誉や命は省みず、奥さんと娘の「いのち」を守るのか。(宮部はその2人を通して、その先に連なる子孫や次世代を見ていたようにも感じました。)それが「大切なこと」なのか。

 

「何が大切なことなのか?」

それは、わたしたちが何に心を動かされるのかを観察すればわかるでしょう。

 

 

さて、ここで当初の問いに戻ろうと思います。

 

「平和のための闘いは有りや無しや?」

「暴力が目の前に迫ってきた時、または暴力的な状況を終わらせ平和を生み出すのにどうするのか?

闘うのか?、逃げるのか?、暴力を甘んじて受けながら、非暴力を貫くのか?」

 

長年のテーマではありましたが、いまの自分ならこんな風に答えたいと思います。

 

『大切なことを大切にする』

 

これが答。

 

闘う。逃げる。甘んじて受ける。は答ではありません。

ある時には闘うことが「大切なことを大切にする」手段かもしれない。また別の時には逃げることがそれかもしれないし、暴力を甘んじて受けながら非暴力を貫くのがそれかもしれません。

 

何を意図してその行動をしているのか?
「大切なこと」を大切にできているかどうか?


これこそが注目すべきところだと腑に落ちたのでした。

 

これは外側から行動を見ているだけではわからないものです。

だからこそ、他者の行動に対して軽はずみな反応的判断は差し控えるべきでしょう。
また、自分が行動するときも十分にその意図に注意しておく必要があるでしょう。外から見えにくい分、自己正当化しやすい、ズルのしやすい考えでもあるからです。内観する力の大切さをあらためて感じます。自戒したいと思います。

 

また、

「何が本当に大切なことなのか」、を見極める感性を磨きたいとも思います。

身の回りには、一見大切そうに見えるけど本当は大切でないものが溢れているし、誘惑も強いから。

 

 

さて、これで長年抱えていた疑問はいったん氷解です。
しばらくはこの考えを実地に適用しながら確認していこうと思います。

 

 

ずい分長文になってしまいました。今回もおつき合いいただきありがとうございます。
スマイルメーカー岡村しげるでした。

もしかしたら「平和」って、争いがある、ないとは関係ないのかもしれない。
大切なものが大切にされている環境が「平和」なのかも。。

 

 

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